英語を履修するにあたって




 Decaffeinated English? No, thank you !

 
1920年代の終わりに、サミュエル・ベケットというアイルランド出身の青年がこんなことを書いています。「……英語くらい悪ずれした言語はない。英語は、うんざりするくらい抽象されてしまっている。ダウト(疑い)という語を例に取ろう。この言葉は、躊躇、選択の必要、静的な不決断といった感覚的な陰影をほとんどあたえない。それに反してドイツ語のツヴァイフェルの場合はけっしてそんなことはない……」(「ダンテ/ブルーノ/ヴィーコ/ジョイス」沢崎順之助訳)。やがて英語とフランス語両方で作品を書くことになる、そして1969年にノーベル文学賞を受賞することになるベケットは、このとき22歳か23歳。現代の日本でいえば大学4年生です。
 ベケットは英語がもつある言語(
)的な特性を彼流に「悪ずれ」―インパクトは弱まりますが、「世間ずれ」といいかえてもよいでしょう―と呼んだわけですが、この文章が書かれた時代から約80年を経た今日、わたしたちはむしろ英語の「悪ずれ」を、言語外的に社会的・経済的・歴史的な要因から実感しているように思われます。というのも、今日、英語は、グローバル化時代の国際語=世間語とみなされ、実際そのように機能しているからです。そして、ただでさえこのように内的・外的に「悪ずれした」言語である英語は、いわゆる「受験勉強」によってさらに「悪ずれした」ものになるといえるでしょう。そこでは「ダウト」という音と「疑い」という意味との関係をめぐって美的な感性を発揮する必要はありません。ただ「ダウト=疑い」と機械的に暗記すればそれでよし。ベケット流にいえば、受験勉強において英語は「うんざりするくらい抽象されてしまって」います。この種の抽象化あるいは抽象性は、単語の記憶だけでなく、たとえば文法の学習や英文解釈といった受験勉強の他の要素においても、多かれ少なかれいえることでしょう。(だから受験勉強は無意味だ、というのではありません。その逆です。何も考えずひたすら機械的に記憶する作業は、外国語学習にとって不可欠です。動詞の活用表を脳裏に焼き付けるときのように。)
 大学における英語教育は、この状況にどう対応することになるのでしょうか。対応は二つ考えられます。一つは、逆説的に聞こえるかもしれませんが、受験勉強によって「悪ずれ」したみなさんの英語をそれとは異なった方向へ発展的に「悪ずれ」させること、すなわち、受験勉強で身に着けた英語力を、国際的世間語として英語を運用する力に成長させることです。そのためには、いわゆる英会話に慣れるだけでなく、できるかぎり学問的背景をもった―このことの重要性はあとでまたふれます―ネイティヴ(相当)教員の指導の下で、英語で論理的な議論をする練習を積み重ねていく必要があります。一橋大学には、みなさんをそうした方向へ導きうるカリキュラムとして、英語IBという必修科目が存在しています。
 もう一つは、「悪ずれ」を矯正することです。英語IBとならぶもう一つの必修科目、英語IAの役割の一つ―あくまで一つです―は、そこにあるといえます。みなさんがこれまで受験勉強のために読んできたテキストは、ほとんどすべてといってよいでしょうが、語彙的にも文体的にも、おそらく文法的にも、一定の制限のもとで書かれたものです。原典から引用された文章であっても、原文の書き換えや単語の入れ替えが行われているのが普通です。こうしたことは何をもたらすでしょうか。たとえば、外山滋比古は「スタイル不感症」ということを指摘しています。これはテキストの内容からもいえます。「外国語教科書の戦後の編集方針は、だいたいにおいて内容の変化を富ませるということに向いているように見受けられる。……物語、会話文、伝記、科学的解説といったレッスンが一見、雑然と並んでいる。……文体上はいちじるしくガタピシしたものになる。……こういう多彩な内容の英語を同じ英語として教えられていれば、学習者にスタイルの感覚が育たないのは当然である」(「スタイル」)。みなさんが英語IAを通じて得るリーディングの経験は、こうした「スタイル不感症」とは無縁のものだと思ってください。たとえば、あるIAの授業では例年、当代屈指の学者・知識人が今日的な問題について書いた、4回ないし5回の連続講演がテキストとして選択されます。ある特定の問題との持続的な格闘が生み出す思考の運動、その思考と不可分の関係にある文体とレトリック、聴衆を意識したユーモアとウィット……その授業では、そうした様々な意味での「スタイル」への感性を培うことが目指されています。それは(かなり高度なことですが)自分の「スタイル」を確立するよすがとなるものであり、ひいては、高度なコミュニケーション能力へとつながっていくものなのです。
 
 大学の語学教育では、ふつう、文学や言語学などを専門的に研究している研究者が授業を担当します(みなさんが高校までに教わった英語の先生は、教師ではあっても、学者ではなかったと思います)。先に述べた英語IAも英語IBも、専任教員が担当する限り例外ではありません。みなさんも大学で語学を学ぶ以上、このことの意味を考えておくことは無駄ではないでしょう。
 わたしが大学生のとき履修した「社会思想史」の先生が、学生に向かってこんなことをいいました。大学時代にやってほしいことが三つある―すなわち、外国語を勉強すること、外国に行くこと、恋をすること。先生曰く、これらは他者(他なるもの)に直面する経験である、つまり必ず挫折、失恋する、と。(一橋大学においては、これらのことはどれも妨げられていません。とくに最初の二つは奨励されており、そのための制度も整備されています。)この先生が外国語と格闘した見習うべき先達として紹介してくれたのが、「語学の天才」といわれたドイツ語学者、関口存男でした。
 大学生のときに買ったものの読了できなかった、関口の『新ドイツ語文法教程』(450頁を越える本です)を久しぶりに開いてみて、次の一節が胸に突き刺さりました。関口は、みずからの「指導精神」の一つである「全人教育の補助手段としての語学という立場」をこう説明しています。学生は、語学の時間において、単に言葉と規則とを学ぶのみではいけない。言葉と不即不離の関係にある『考えの筋道』、すなわち自己よりも一歩ないし二歩を先に出ている頭と心の動き方を見物しなければならない。ほんとうをいうと、教師がそういう頭と心の動き方をやってみせなければならないのであるが、語学というものが幸い、ちょうどそれに適しているから、教師は書物の選び方一つによって、這般の任務を十分に果たすことができる。たとえ文法の時間でも全人教育的効果をあげることができれば、それに越したことはない。
 「教師がそういう頭と心の動き方をやってみせる」には、教師に学問的な背景がなければならないでしょう。また、教師に学問的背景がなければ、「全人教育的効果をあげる」ための書物など選べるはずがありません。研究者が語学の授業を担当することの意義は、おそらく、いささか大げさですが「全人教育」という視点からみえてくると思います。
 近年その必要性が強調されている英語コミュニケーション・スキル教育は、一般的にいって、関口存男的な「指導精神」を必要とするものではありません。もちろん「スキル教育」は重要であり必須です。しかし、それだけに過度に偏重するならば、失うものは大きいといわざるをえません。文法はもういい、訳読はもういい……といったすえに、「全人教育」まで捨ててしまっては、産湯と一緒に赤ん坊を流してしまうことになる―関口存男ならそういうのでないでしょうか。物事からその核にある大事なものをあえて抜き取るという姿勢は、現代の精神的特徴(イデオロギー?)なのかもしれません。ある哲学者がよく指摘することなのですが、今日、食料品店には、核となる成分を抜き取られた製品が並んでいます。カフェイン抜きコーヒー、脂肪抜きクリーム、アルコール抜きビール……などです。カフェインはコーヒーをコーヒーたらしめるものであるにもかかわらず、有害とみなされるのです。話は食べ物に限らない。戦争抜き戦争としてのコリン・パウエルの「死傷者ゼロ」戦争政策をここに加えることもできるでしょう。もしかしたら大学の英語教育がこのリストに連なる日もそう遠くないのかもしれません―語学抜き語学としての、教育抜き教育としての「スキル教育」というふうに。
 いまさら「全人教育」といった理念を持ち出すのは、教養主義へのノスタルジアにすぎないのでしょうか。関口存男が、引用した一節を書いたのは昭和7年。当時は「外国」も「外国語」も、いまとくらべて、ある意味で、はるかに遠い疎遠な存在であったことでしょう。なにしろ今のように簡単に「外国」に行くことはできないし、インターネットを使って手軽に「外国語」の放送を聴くこともできないのですから。しかし、関口が諸外国語を猛烈に勉強・研究した時代が「大戦間期」であったことを忘れてはならないと思います(昭和7年は1932年です)。それは、「外国」や「外国語」に対して、今日では経験しえないような強度の緊張感をもって対峙せねばならなかった時代であったはずです。ドイツ語学の分野で途方もない業績を残し、フランス語、英語、中国語もよくできたという「語学の天才」―彼はアテネ・フランセで、フランス語でフランス語を教えたそうです―が、この緊張に満ちた時代に残した言葉にあらためて耳を傾けること。わたしはこちらを選びたいと思います。その言葉を「古い」といって切り捨てるよりは。 (中山 徹)


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Whose English?――英語って誰のもの?

 


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