英語を履修するにあたって




トレンディでグローバルでフィジカルな英語学習法

この学校で教えるようになって五年になるが、一橋の学生は英語はできると思う。入試問題も難しいし、あの難しいのを解いてよく入ってくるものだ。教養の英語の授業のレベルは、日本の大学の中で、五指には入るだろう。

「誰かを批判したくなったら、君が生まれつき持っているプラス面を、誰もが持っているわけではないことを思い出しなさい」『グレート・ギャツビィ』という小説の冒頭の、かなり有名な一文である。父が息子に与えた助言で、説教臭いと言えば説教臭いけれど。

受験勉強で、英語が得意科目でなかった者も多くいるだろう。英語が得意科目だった人は、数から言えば、むしろ少数派だろう。だがそれでも総体として、あなたたちは、「英語ができる人」である。言うまでもないけれど、日本には、センター試験の英語の問題が一文も理解できないという人もいる。そういう人達はいっぱいいる。

そういう状況を見ずに、自分は英語ができないと思い込むのは、逆転したエリート意識だろう。まるでそれは、自分が一番じゃないから、俺は英語ができないと駄々をこねる子供のようだ。君より英語ができる人はもちろんいる。でも、君より英語が苦手な人はもっとたくさんいる。その中で、自分は比較的英語ができる層に属することをきちんと自覚すること—それは大切なことだ。

こんなことを言うのは、大学での四年間の意味を考える時に、正しい地図を持つことこそがとても重要なことだからだ。結論を先に言えば、これから英語を自覚的に、そして計画的に、学習するかどうかで、四年後には大きな差がでる。(だってそれは、考えてもみてごらん、高校三年間よりも長いのだ。)四年間をどう過ごすかで、その時、英語がぺらぺらになっているか、入学時よりもできなくなっているかが決まる。決まってしまう。

まあ、入学したばかりの人に言っても、遠い先の話にしか聞こえないかもしれないけど。

学生のレベルが高いと、英語の授業は体育の授業に近くなる。実際その意味で、英語は大学の他のどんな授業とも異なっている。簡単に言えば、教員が学生さんに教えなければならない「知識」など、そこにはないということである。

もちろん、知らない単語はあろう。でも、我々は授業で単語を教えるわけではない。文法?たぶん高校の時から既に、あなたがたは英語の文法ではなく、英語の文法の例外を学び続けてきたはずだ。その核においておそろしく単純な文法を持つ英語という言葉について、覚えるべき文法規則は、ほぼ高校までの範囲で網羅されている。

けれど話せない。あなたたちに系統的に更に教える「知識」などないけれども、それはあなたたちが英語を完璧にマスターしているということではない。実際に実験して欲しいが、たとえば「国立駅はその門を出て左折し、五分歩いたところです」という文を、紙の上でなら英語に訳せない人はほとんどいないだろう。けれど、歩きながら—だから足を止めずにだよ—これを頭で訳して言える人がどれくらいいるだろう?辞書を持って机に向かえば、もはやあなたたちの訳せない英文は非常に少ないだろう。でも、電車の中の十五分でこの段落を要約してごらんと言われると、それは相当な難題となる筈である。

受験英語とそうではない英語の差。これまであなたたちは、試験会場でこそ発揮できる種類の英語力を身につけてきた。けれどももちろん、世界は試験会場ではない。そしてもう一つ重要なことは、あなたたちの多くが、たぶん、これまで身につけてきた能力がどのように特殊な能力かということに気付いていないという点である。

とりわけ一年時の英語の授業で強調されることは、受験という必要があり、その目標に向けて特化されてきたそれから、あなたの英語を解放してあげることだ。極端に言えば、これまでの英語は、「正しく」なければならなかった、そうでなければ意味のない英語。これから身につけるべきなのは、通じさえすればそれが「正しい」英語である。

そのような英語は、もはや「知識」ではない。それは、正しい知識を学ぶこと、それを手に入れることではない。そのことが、英語の授業を、他のどのような科目とも異なったものにする。上の例も示しているように、それは反復であり、習熟であり、身体技能である。それは水泳や自転車の乗り方と同じカテゴリーに属している。そこで重要なのは—泳ぎ方を、自転車の乗り方を考えてみよう—正しいか正しくないかではなく、それができるのかできないのかである。

陶芸の名人は、たとえどこまで行っても、自分は陶芸の道を極めてはいないと言うだろう。英語が身体技能になるということは、誰も英語を極められないということを意味している—そして、全員が英語が「下手」なら、つまりはそれは、全員が英語が「上手い」ということにもなる。これは、嘘じゃない—だって、全然ヴォキャブラリーがなくても、「会話」のできる人っているでしょ。

ある意味では、語学は簡単に上達する。趣味でアメリカの小説を読み続けることで、日常生活には苦労しない英語力を得る人がいる。映画を見続けることで、英語が話せるようになった映画好きは沢山いる。英米の音楽をまねして唄うことで、英語でコミュニケーションをとれるようになったミュージシャンを数え上げればきりがない。彼らは英語を、極めてはいない。でも、それなら、英語を極める必要なんかない、でしょ。

語学とは、どのようなかたちであれ積み重ねた努力が、確実に返ってくるジャンルだということ—上の例はそう言っている。あなたたちは「それは私とは別世界の人々のことだ」と思うかもしれない。あなたたちの多くは、自分にはそんな魔法のようなことは起こりっこないと考えるのだろう。なぜそう思うのか?それは、英語コンプレクスである。

たとえば、80年代に登場した佐野元春というミュージシャンがいる。「サムデイ」や「アンジェリーナ」や「ガラスのジェネレーション」という彼の初期の楽曲は、その革新的なソング・ライティングで、後の楽曲群の雛形となった。音楽的には同時代の英米のミュージシャンの影響を受けながら、彼の歌詞は—同時代のサザンオールスターズらとともに—日本語と英語の単語を同じ行の上で自由に混ぜながら、日本語をまるで英語のようにリズムに載せることで、日本におけるポップ・ミュージックの新しいあり方を示した。

何枚かのアルバムとヒット曲を出した後の佐野は、ニューヨークに移り一年間暮らした。そして彼の歌詞からは、英語の単語が激減する(時期は少しずれるが、ヒット曲で言えば、「サムディ」と「約束の橋」を比べてみればよい)。これは奇妙と言えば奇妙なことだ。日本語の中に英語を一生懸命入れようとしていたミュージシャンが、英語を使いこなせるようになると、逆にそれを使うことをぴたりと止めてしまったのだから。なぜ佐野は、前のように「カッコイイ」英語の唄を唄うことを止めてしまったのだろう?英語でも唄えることを知ったとき、なぜ彼はもう英語で唄おうとしなかったのだろう?

英語が上手くなるとは英語コンプレクスがなくなることだという単純な事実を、佐野のエピソードは示している。

コンプレクスとは、根拠のない恐れのことである。佐野は、ネイティヴ・スピーカーより英語が上手くなったわけではない。(それを言えば、一橋の入試を受ければ、あなたたちの多くは彼より点が高いだろう。)彼はむしろ、英語が上手い必要などないということに気付いたのだ。コンプレクスとは、相手が自分より実力があることに対してうまれる劣等感ではない。コンプレクスとは、自分が完璧ではない、だから自分は不完全であると常に思い続ける強迫観念である。

達人である必要などない。英語ができるようになるとは、英語から自由になることである。それは、自分の英語が不完全であることを知りながら、その不完全な英語でも自分の目的のためにはなんの支障もないと理解することである。突き詰めるとそれは、その人の英語の「実力」の問題ではない。その人の、英語に対する、心理的な態度のあり方だ。

佐野が一年間の滞米経験の末それを得たように、そのような意識変革は、もちろん、口で言うほど簡単なことではない。だがそれが、この大学での四年間であなたたちに得て欲しいものの中心であり、英語Iの授業でわれわれが教えようと思うものの中心である。そしてそれは、あなたたちが自分の英語の学習の目標に自覚的になることで初めて見えるようになってくるものである。このことを忘れないで。

この話は、実は、異文化理解とはなにか、どういうことかということである。佐野が示しているのは、いぢわるな例をあげれば、日常会話に英語のカタカナをいっぱい混ぜる人は、きっと英語ができない人だということだ。それがコンプレクスというものである(だから「いぢわる」と言ったのは、他人のコンプレクスを笑ってはいけないということだけど)。あるいはまた、外国人に英語で道を聞かれて答えられなかったとか、アメリカ人がいっぱいいる前で話さなければならないのに上手くできなかったとか、そういったことでトラウマを持つ必要などまったくないということだ。トラウマが、あなたの英語の上達を妨げる。

英語が身体技能の問題となると、英語コンプレクスに陥り易くなる。泳ぎを口で教えることはできないから、同様に、身体技能としての英語を系統的な知として説くこともできない。そこに神秘化が起こる。そして人は—ちょうど、自分の体型にコンプレクスを持つ人が様々なダイエットの広告にすがりつくように—外国で暮らせばペラペラになるのではないか、あそこの学校に行けばペラペラになるのではないか、あの教材を聞いていればペラペラになるのではないか、外国人に教わればペラペラになるのではないか、といった「夢」を見始める。その先では、英語が話せるようになれば明日から私の世界はまったく違ったものになるのではないか、英語ができれば私はきっとエリート・ビジネスマンになれるだろうと。

教え方に優劣はある。すべての教え方が同じではないだろう。でも、水に入らない者が泳げるようにはなるかのような物語は、すべて英語の周りを取り囲む幻想であり、神話である。英語は神ではない。偉大な神でもないし、邪悪な神でもない。英語を神秘化することはない。グローバル化の時代と呼ばれるようになって、英語が完璧に話せるようになることは、ある意味でもはや、全世界的な夢である—良くも悪くも。英語の教師としては、英語を上手くなりたいという願望をあなたたちが持つことには、基本的に異論はない。でも、英語が話せるようになっても世界は変わらない。それは、英語はただの言語であり、道具でしかないからだ。そこに魔法はない。

ただ、英語が話せるようになることに一つだけ魔法が潜んでいるとするなら、それはあらゆる外国語を学ぶことに潜んでいる魔法、異文化理解、異文化コミュニケーションの技術を身につけることになるという魔法である。そしてそれは、英語コンプレクスを克服することを意味している。つまり、もう英語ができないことをコンプレクスとして苦にする必要がなくなるという魔法、「外国人」を、「外国人」であるからといって過剰に崇めたり嫌ったりする必要はなくなるという魔法である。

英語上達の早道は、英語コンプレクスをなくすことである。それは異文化関係に過剰な意味付けをすることを止めて、英語を自分の目標を達成するためのたんなる道具、技術と考え、その技術を獲得するための冷静で科学的な努力を積み重ねることである。精神論的に言えば、それは、英語コンプレクスを乗り越える自信がつくところまでの充分な努力をすることである。それは英語を多く読み、聞き、話し、多くの単語を覚えることである。そこにはなんの魔法もない。逆に言えば—繰り返すが—英語はそのような努力が確実に力となってあらわれる科目である。そこにはなんの魔法もない。

最後に。ヨーロッパでは、知識人とは、複数以上の外国語を話せる人間を意味している。そしてヨーロッパでは、大学卒業者とは基本的に知識人であることを求められている。英語学習は身体技能の獲得だと述べたが、極論すれば文法書一冊覚えればそこで求められていることは成し遂げたことになる、いわゆる未修の、英語以外の外国語の科目は、英語よりずっと論理的で、科学的な科目である。ある意味で、地道な努力が嫌なら、英語以外の科目を採ることを考えた方が良いかもしれない。 (三浦 玲一)







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