英語を履修するにあたって




Whose English?――英語って誰のもの?

 
「わたしの英語って訛ってる?」――何年か前、通勤途上の駅の構内で、若い女性の当惑した表情にこんなキャッチフレーズをかぶせた英会話学校のポスターを見かけたことがあります。「ネイティヴらしい」発音を身につけるには日本人の教師に習っていてはだめですよ、「ホンモノの」英語を話したければ講師陣にネイティヴ・スピーカーをとりそろえた当校へ、とでもアピールしたかったのでしょう。
 英会話学校、英語教材の宣伝が巷に氾濫していることからもわかるように、私たちは日々、「英語が必要」、「英語を学ばなくてはならない」というメッセージに囲まれて暮らしています。おそらく、一橋に入学してきた学生さんのほとんどは、「とりあえず英語はやらなきゃ」と思っていますよね――厳密には英語は必修ではなく、ほかの外国語を代わりに履修することだってできるのですが。しかし、ここであらためて問い直してみたいのです。私たちはいったいなんのために、英語を学ぶのでしょう?「国際的なビジネス・エリートになるために、英語は不可欠」、「将来はアメリカに留学してMBAを取得したい」――模範的な一橋生の回答は、こんなところでしょうか。
 つきつめて考えれば、外国語を習得する理由は、その言語を使う人とコミュニケーションをはかりたい、あるいはコミュニケーションする必要があるからだと言えるでしょう。その目的がビジネスであれ、留学であれ。では、もう一つ質問です。「英語を使う人」とは、いったい誰のことでしょう?英会話学校の宣伝は私たちに、ある特定の「ネイティヴ」像を押し付けてきます(ちなみに日本語で「ネイティヴ」と言うときはたいていnative speaker of English を意味しますが、英語の native の意味とは非常に異なりますので、ここでは面倒ですが、ずっと括弧付きで使います)。そういったポスターやCMに現れる英語教師の多くは、アメリカ人、イギリス人、オーストラリア人と推定されるヨーロッパ系(白人)です(オバマ米国大統領の誕生で、ちょっと変わってくるかもしれませんが)。でも、ほんとうに、そうした人たちだけが英語を話す人たちなのでしょうか?
 ちょっと前に、イギリスの新聞ファイナンシャル・タイムズに「英語は誰のものか?」というタイトルのコラム記事 (Michael Skapinker, “Whose English?” The Financial Times, November 9, 2007) が載っていました。経済新聞の記事としてはたいへん興味深い内容だったので、授業でも取り上げました。その記事によれば、現在英語を「それなりに話す (can communicate reasonably well) 」人の数は15億人、世界の人口の4分の1程度にもなるそうです。しかし、英語が第一言語である人の数については、中国語、スペイン語、ヒンドゥ・ウルドゥ語(インド、パキスタンの公用語の一つ)、アラビア語などと比較すると、その割合は年々減少しつつあります。つまり、母語あるいは第一言語としてではなく、第二言語、外国語として英語を話す人の割合が、どんどん増えているということなのです。
 英語を学習する人、話す人が増えると、結局は英語のネイティヴ・スピーカーばかりが得をする――アメリカ人やイギリス人は苦労して外国語を覚える必要はなく、いばっていられる――と思いがちですが、この記事の記者は、英語の国際化はネイティヴ・スピーカーにとって必ずしもありがたいことばかりではないと指摘しています。英語で行われるビジネスや国際会議の場ではしばしばネイティヴ・スピーカーが少数派となり、「ネイティヴらしい」発音や表現がかえって「わかりにくい」と敬遠されることもあるのです。記事にはたとえば、国際学生会議でただ一人のネイティヴ・スピーカーだったイギリス人学生が、ほかの参加者から「あまりイギリス人っぽく話さないで」と釘を刺された、などといったエピソードが紹介されています。英語は国際的なコミュニケーション・ツールであって「ネイティヴのように」話す必要はないという、英語に対する「新しい国際的な姿勢」が生まれつつあると、記者は主張しているのです。
 そうは言っても、英語がこれだけ世界中に広がったのは、かつてはイギリスが世界中に植民地を持つ「日の沈むことのない大帝国」だったから、20世紀後半以降はアメリカ合州国が世界を経済的、軍事的に支配しているからなのだし、いまだ「ネイティヴ」=アメリカ(白)人というイメージのはびこる日本の現状を考えると、この記事の主張はおそらく楽観的にすぎるでしょう。しかし、世界を見渡して、実際に「誰が」、「どのような」英語を話しているかを知っておくことは、今日英語を学習する私たちには不可欠の知識です。
 たとえば、シンガポール、フィリピン、インド、ナイジェリアといった国々には、英語を第一言語として話す人たちがいます。こうした国々はかつてイギリスやアメリカの植民地だった地域ですが、もともとは「植民者の言語」だった英語は幾世代かを経て地域に浸透し、今ではもはや外国語ではなく、その地域の言語の一つとして日常的に使われています。しかし、現在こうした地域で話される英語はしばしば、語彙、あるいは文法の面においても、地域のほかの言語の影響を受けた独特の形に変容しています。チヌア・アチェベという有名なナイジェリアの小説家は、小説の登場人物の会話にナイジェリア・ピジンと呼ばれる独自の英語を使ったところ、アメリカの書評者からは「意味がよくわからない」と批判されました(アチェベはこの小説をアメリカ人ではなくナイジェリア人に読んでもらいたくて書いたわけですから、こうした批判はもちろん、的外れなのですが)。現在世界中に存在するこうした英語の「変種」は、大文字の English に対して englishes と小文字の複数形で表されることもあります。英語の「ネイティヴ」の中には、このような英語を話す人たちも含まれるのだということを、私たちは知っておかなくてはなりません。
 一方、英語は世界中の多くの国々で、第二言語あるいは外国語として学習されています。それゆえ、英語はしばしば、ドイツ人が中国人と話すとき、ブラジル人がロシア人と話すとき、日本人が韓国人と話すときのコミュニケーション・ツールとなります。このように国際語、世界語としての役割を担う英語がいわゆる「ネイティヴ」の英語とは異なっているのは当然ですし、そうした場で話される英語が「ネイティヴのよう」である必要はないのです。コミュニケーションの基本は、いかに相手の話をきちんと聞き取り、それに応えて、自分の考えをいかに正確に、誠実に、相手にわかってもらえるように表現するかというところにあるのですから。
 英語が多くの国々で地域語の一つとなり、同時に世界語としてさまざまな地域の人に話されるようになった現在、英語を習得することによって、私たちの世界は大きく広がることになります。英語を学ぶことは、アメリカやイギリスについて学ぶことだけではなく、アジアを、あるいはアフリカを知るきっかけにもなるのです。ですが、それだけで満足してしまってはなりません。英語を通じてインドを知り、その文化に興味を持った私たちは、実際にインドに出かけてみることによって、実はインドには英語を話さない人たちが大勢いるという事実を目の当たりにすることになるでしょう。そしてインドという国が多様な言語と宗教と文化を抱えた多民族国家で、そこでの英語は、特定の社会階層の人々が話す階級言語だということを学ぶでしょう。そして、インドをより深く知るためには、英語以外のインドの言語を学ばなくてはならないと痛感するはずです。英語は世界への窓口になるかもしれませんが、個々の地域の人と文化をほんとうに理解するためには、その土地固有の言語を習得しなくてはならないのは、言うまでもないことです。

 世界語としての英語を習得するということは、「ネイティヴのように」ではなく、世界の人々と意見を交換するための道具の一つとして、英語を使うということなのです。それではより具体的に、そうした英語を身につけるには、私たちはどうすればよいのでしょうか?
 「日本人は英語の読み書きはできるが、会話が苦手」などとよく言われます。このことは、読み書き重視の英語教育の問題であるとも、方々で指摘されています。ほんとうにそうなのでしょうか?近年、外国の人たちとのコミュニケーション手段として最も頻繁に活用されているのは、電話よりもむしろEメールなのではないかと思いますが、いろんな国の人から送られてくるメールの英文を読み比べるとき、日本人の英語の文章は、もちろん個人差は大きいですが、平均するとあまり上手なほうだとは思えないのです。奇妙に美辞麗句を並べたり、あるいはその逆に、意味が伝わりさえすればよいと言わんばかりに、やたらぶっきらぼうだったり。論理が支離滅裂で、結局用件がなんなのかわからないこともあります。基礎的な語彙力や文法力は身に付けているはずの人たちが、これほどまでに「英語が書けない」理由はなんなのだろうと、悩んでしまいます。
 もちろん「書けない」原因の一つは英会話と同じで、知識はあっても経験が足りないからなのでしょう。しかし私は、コミュニケーションに対する姿勢そのものにも、どこか問題があるのではないかと思っています。先にも書きましたが、よいコミュニケーションとは、相手を思いやり、相手の意見を十分に理解し、その上で自分の考えを相手に理解してもらえるよう努めることです。難しい言葉やわかりにくい言い回しを使って相手を威圧したり混乱させたりといったことは――もちろん、実際のコミュニケーションの現場では、そうしたことはよくありますけど――誠実な話し手、書き手のすることではありません。ですが、多くの日本の大学生にとって、英語学習はこれまではもっぱら受験のため、今後はとりあえず就職のためであって、「いまだ出会わぬ世界の誰か」と英語を使ってコミュニケーションすることなど、ほとんど念頭にないのでしょう。受験のための英語、資格試験のための英語はいわば「見せびらかし」のための英語であって、そうした姿勢で英語学習に臨んでいる限り、ほんとうの意味で「通じる英語」は身につかないのではないかと危惧しています。
 確かに、実際に周囲に英語を話す人がほとんどいないような普通の日本の大学生の日常で、話す練習を頻繁にするのは困難です。ですから私は――会話の練習が必要なのは言うまでもないことですが――日本の大学の現状に合った優れた学習方法の一つは、英語をきちんと書く訓練をすることではないかと思うのです。「いまだ出会わぬ世界の誰か」に向かって、じっくり考えをまとめつつ、どうやったらいちばんよく自分の言いたいことが相手に伝わるか、試行錯誤しながら書いていく。それは回り道をしているようでいて、実は「通じる英語」を習得する確実な方法なのではないでしょうか。そして、そうやって書く練習をしているうちには、きちんと書くためにはほかの人がどのように書いているのかを知ること、つまりきちんと読む訓練をすることが必要だということにも、きっと気づくはずです。 
(中井亜佐子)





バックナンバー
トレンディでグローバルでフィジカルな英語学習法 (三浦玲一先生)


ホームへ戻る