巻数 | 回数 | 年月日 | 報告者 | 題 目 |
56巻 | 第285回 | 2019年1月27日 | 今村 和宏 | 日本語教育からメディアリテラシーへ |
第284回 | 2018年6月27日 | 越智 博美 | 冷戦期の文化政策??女たちと本のプログラム | |
55巻 | 第283回 | 2018年2月7日 | 鵜飼 哲 | ジャック・デリラ「詩とは何か」再読 |
第282回 | 2017年2月7日 | 森千香子 | ジェントリフィーションと排除と抵抗 |
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54巻 | 第281回 | 2016年10月26日 | 河野真太郎 | ウェールズの政治と文学 −社会主義とナショナリズムの相克ー |
第280回 | 2016年7月27日 | 松井 咲子 | 日語教育における多読教育?その効果と可能性 | |
第279回 | 2016年6月22日 | 太田 陽子 | 日本語の運用と「文脈」―文法記述に書かれていないこと― | |
53巻 | 第278回 | 2016年2月17日 | 三瓶 裕文 | 心的視点性と体験話法の機能についてードイツ語の場合 |
第277回 |
2016年2月17日 | 五味 政信 | 『五味版 学習者用ベトナム語辞典』を編んで | |
第276回 | 2016年1月27日 | 佐野 泰雄 | トポス「不幸な青少年期」の近代 | |
第275回 | 2015年12月2日 | 五十嵐陽介 | 音声学から歴史言語学へ― フィールド ワークとロシア資料に基づいた日本語方言研究 | |
第274回 | 2015年10月28日 | *本例会は越智博美先生と河野真太郎先生が編集なさり、 語研所属メンバーも多く執筆している本著をとりあげて合評するものです。 | 『ジェンダーにおける「承認」と「再配分」―格差、文化、イスラーム』 (彩流社、2015年) 合評 コメンテイター:千田 有紀 先生(武蔵大学教授:ジェンダー学)大河内 泰樹 先生(一橋大学教授:哲学) | |
第273回 |
2015年6月24日 |
三原芳秋 |
スピノザを読むT.S.エリオットを読むー付・「持参金」のゆくえ |
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52巻 | 第272回 | 2015年2月18日 | 三枝 令子 |
日本語の今 |
第271回 | 2015年2月18日 | 石黒 圭子 |
日本人学部学生の日本語による作文執筆過程の分析 |
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第270回 | 2015年1月28日 | 中島 由美 |
うたの生まれるところ | |
第269回 | 2014年6月25日 | 松原 真 |
西南戦争期の報道について |
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51巻 | 第268回 | 2014年2月19日 | 早坂 静 (執筆代表) |
『ジェンダーと「自由」──理論、リベラリズム、クィア』 (彩流社、2013年)合評 コメンテイター : 大田信良先生 (学芸大学) 戸谷陽子先生 (お茶の水女子大学) |
第267回 | 2013年12月18日 | 鈴木 将久 | 上海モダニズムをどう読むか | |
第266回 |
2013年11月20日 |
司会: 町田みどり | 語研50周年の記念号企画座談会 鈴木道彦先生、中村喜和先生、諏訪功先生、櫻井雅人先生、松永正義先生 |
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第265回 | 2013年6月26日 | 小岩 信治 | ピアノ協奏曲の誕生 | |
50巻 | 第264回 | 2012年12月19日 | 井上 間従文 | トランスパシフィックと戦争の記憶--歴史、アート、美学理論 |
第263回 | 2012年11月28日 | 小泉 順也 | ポール・ゴーガンの受容をめぐる諸相―没後の芸術家表象の展開を通して | |
第262回 | 2012年7月 4日 | 森 千香子 | 題 名: 「反人種差別と反性差別の狭間で ――フランスの移住女性運動の展開と文脈の特殊性」 |
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第261回 | 2012年5月23日 | 高橋 将一 |
Introducing the Hidden Side of Language |
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49巻 |
第260回 | 2012年2月22日 | 田邊 秀樹 |
「死神はウィーンっ子−−−町の歌に聴くウィーン的死生観」 |
第259回 | 2012年2月22日 | 佐々木 滋子 | マラルメとアナーキズム | |
第258回 | 2012年1月18日 | 松永 正義 | 日本人の台湾認識 | |
第257回 | 2012年1月18日 | 古澤 ゆう子 | アキレウス 怒りの終息 | |
第256回 | 2011年12月21日 | 秋谷 治 | 絵巻物・写し絵とアニメーション | |
第255回 | 2011年12月21日 | サリバン | 効果的な英語教育――近年の研究動向 Effective English Language Instruction: Recent Research |
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第254回 | 2011年10月26日 | ドボルザーク | 日本列島と「ミクロネシア」〜戦争・帝国・グローバル化をめぐる太平洋からのアプローチ | |
第253回 | 2011年6月29日 | 吉野 由里 (執筆代表) | 『ジェンダー表象の政治学― ネーション、階級、植民地』合評会 | |
第252回 | 2011年5月25日 | 櫻井 雅人 | 「仰げば尊し」とその原曲 | |
48巻 | 第251回 | 2010年2月16日 | 三浦・河野 | 新自由主義の文化を研究しなければならない |
第250回 | 2010年12月5日 | Degen ・ 藤野 | ワイマール短期語学研究2010 − 報告と課題 | |
第249回 | 2010年6月30日 | 星名 宏修 | 娯楽と動員−植民地期台湾のラジオドラマと中山侑 | |
47巻 | 第248回 | 2010年2月17日 | 井上 義夫 | rラスキン『ヴェニスの石』巡り |
第247回 | 2009年12月16日 | 佐々木 滋子 | マラルメと第三共和制――民主主義社会の文学 | |
第246回 | 2009年10月28日 | 中山 徹 | エスのあったところに緑をあらしめよ――ジョン・ハーグレイヴ論 | |
第245回 | 2009年7月15日 | 中井 亜佐子 | 「ヴェール」の自伝――近代、フェミニズム、多文化主義 | |
第244回 | 2009年6月17日 | 河野 真太郎 | 未来派から遠く離れて―ウルフ・未来派航空劇・マニフェスト芸術 | |
第243回 | 2009年5月27日 | Degen,Deniau (小関)坂内、笹倉 |
初修外国語の短期語学研修について | |
第242回 | 2009年4月15日 | 合評 | 『ジェンダーから世界を読むU--表象されるアイデンティティ』合評会 | |
46巻 | 第241回 | 2009年2月4日 | 土岐 健治 | 一橋大学で私の歩んできた道と、研究活動 |
第240回 | 2008年12月17日 | 古沢 ゆう子 | アリストテレス『詩学』カタルシス再考 | |
第239回 | 2008年10月29日 | 中島・小関 | CALL活用のためのマルチメディア教材開発 | |
第238回 | 2008年7月16日 | 洪 郁如 | 植民地台湾におけるファッションの政治学 | |
第237回 | 2008年6月25日 | 川本 玲子 | 生きることと語ること-自閉症の視点から見た自己と世界 | |
第236回 | 2007年12月11日 | 三浦玲一 | モダニズムとアイデンティティ | |
45巻 | 第235回 | 2007年6月11日 | Ralph Degen | どのように日本人学生に自立学習に役立つ考え方(メタ認知能力)を促進することができるのか |
第234回 | 2007年2月21日 | 櫻井雅人 | 「蛍の光」の成立と変奏 | |
第233回 | 2007年1月24日 | 吉川良和 | 20世紀初頭における中国の女性と北京の演劇界 | |
第232回 | 2006年12月20日 | 横張 誠 | ユートピアから地獄の平等へ | |
第231回 | 2006年10月28日 | 藤野 寛 | 『「フロイトを翻訳」雑感』 | |
第230回 | 2006年7月26日 | 井川ちとせ | 英国選挙法改正と男性性 | |
44巻 | 第229回 | 2006年5月24日 | 早坂 静 | トニ・モリソンの『ジャズ』の語りのアフリカ系アメリカ性と地理表彰について |
第228回 | 2006年3月15日 | 山田 直道 | 材源研究と本文批評−シェイクスピアの『リチャード三世』を巡って | |
第227回 | 2006年3月15日 | R.Habermeier | 私たちの愚かさについて | |
第226回 | 2006年2月22日 | 恒川 邦夫 | カリブ海とインド洋のフレンチ・クレオールについてーマルチニク、ハイチ、モーリシャス、レユニオンの事例に即して | |
第225回 | 2005年10月19日 | 岩月 純一 | 20世紀初頭にハノイで発行された新聞についての予備的考察 | |
第224回 | 2005年7月20日 | 吉野 由利 | マライア・エッジワース「倦怠」(1809)の処方箋ー専門教育と理想のパトリオット創出 | |
43巻 | 第223回 | 2005年5月25日 | 南 裕子 | 現代中国における農村自治の存立構造 |
第222回 | 2005年3月16日 | 新井 晧士 | 計量言語学の可能性について | |
第221回 | 2005年2月16日 | 松岡 弘 | 日本語・教育・コメニウス | |
第220回 | 2004年12月15日 | 横張 誠 | フランス中世の計画都市 バスティードについて | |
第219回 | 2004年10月20日 | 新田 啓子 | 多文化主義を超えて ―ハーレム・ルネサンスと人種表現 | |
42巻 | 第218回 | 2004年5月26日 | 井上 義夫 | 村上春樹の想像力 ―因果はめぐる風車 |
第217回 | 2004年2月19日 | 滝沢 正彦 | 英語を読む | |
第216回 | 2003年12月17日 | 松永 正義 | 世界華文文学について | |
41巻 | 第215回 | 2003年11月26日 | 尾方 一郎 | ミュンヘンとドイツ ―イメージと文化 |
第214回 | 2003年2月19日 | 中井 亜佐子 | ハイブリッド文化をめぐって―『悪魔の詩』再考― | |
第213回 | 2002年12月18日 | 中上 玲子 | 現実と虚構のはざま ー ミュリエル・スパークの小説を読む | |
40巻 | 第212回 | 2002年11月27日 | 鵜飼 哲 | 戦争と演劇 −アイスキュロス、シェイクスピア、ジュネ |
第211回 | 2002年2月20日 | 磯池 明雄 | 知覚の言語 ― みる・きく・しる ― について | |
第210回 | 2002年1月23日 | 喜多崎 親 | 断片としてのオリエント ― ギュスターヴ・モローの《聖なる象》をめぐって | |
第209回 | 2001年11月21日 | 三浦 玲一 | ドナルド・パーセルミをどう読むか?―或いは、私は何故ポストモダニズムを研究することになりしか? | |
第208回 | 2001年10月24日 | 岩月 純一 | ベトナムにおける近代的漢文教育についての一考察 | |
第207回 | 2001年7月4日 | 安田 敏朗 | 「国語国字問題」としての「英語第二公用語論」 | |
39巻 | 第206回 | 2001年5月30日 | 越智 博美 | 農本主義と新批評の接続―アメリカ南部文学というジャンル |
第205回 | 2001年2月21日 | 田辺 秀樹 | ウィーンのミュージカル『エリーザベト』をめぐって | |
第204回 | 2000年10月25日 | 田尻 芳樹 | モダニズムと共感覚(synaesthesia)―ベケットを中心に | |
第203回 | 2000年6月28日 | 武村 知子 | 伊勢物語をめぐる書妖談義―レジュメに替えて | |
38巻 | 第202回 | 2000年5月31日 | 松岡 弘 | 言語教育の源流への旅―コメニウスを訪ねて |
第201回 | 2000年2月23日 | 河村 錠一郎 | ある愛の物語―図像学という絵解き | |
第200回 | 1999年12月15日 | 横張 誠 | ボードレールにおけるspleen(憂愁)の空間型モデルによる理解の試み | |
第199回 | 1999年10月27日 | 松永 正義 | 台湾語は「国語」になれるか | |
第198回 | 1999年6月30日 | 石黒 圭 | 接続詞「そして」について | |
37巻 | 第197回 | 1999年5月26日 | 小関 武史 | 18世紀フランス『百科全書』に描かれた中国と日本 |
第196回 | 1999年2月24日 | 諏訪 功 | ”Ostalgie"などについて | |
第195回 | 1998年12月16日 | 前田 眞理子 | 外交のアウトサイダーとして―アメリカ合衆国における女性外交評論家の歩み | |
第194回 | 1998年11月25日 | 笹倉 一広 | 一橋大学中国語学研修旅行の現状と課題 | |
第193回 | 1998年7月8日 | 庵 功雄 | テキストにおける指示詞の機能と「は」と「が」の選択との相関 | |
36巻 | 第192回 | 1998年5月6日 | 吉川 良和 | 中国先秦時代のコト類について―孔子は琴を弾いていなかった |
第191回 | 1998年2月19日 | 菊田 正信 | 『馬氏文通』から100年 | |
第190回 | 1997年12月17日 | 杉田 くに子 | 読みのプロセスと意味のまとまりの変化 | |
第189回 | 1997年10月29日 | J.F.Mancuso | The Internet in the Language and Literatue Classroom:A Basic Introdustion to a Powerful Education Tool | |
第188回 | 1997年7月16日 | 山田 直道 | 『ハムレット』―クォート版、フォリオ版とテキスト編纂 | |
35巻 | 第187回 | 1997年5月28日 | 西谷 まり | 小学校における外国人子女の教室適応と日本語習得 |
第186回 | 1997年2月14日 | 平野 信行 | アルコールとアメリカ文学 | |
第185回 | 1996年12月4日 | 橋沼 克美 | イギリス、アイルランド、スウィフト | |
第184回 | 1996年7月17日 | 笹倉 一広 | 外国語のカリキュラム改革―静岡大学の事例 | |
第183回 | 1996年6月19日 | 菅野 賢治 | ドレフュス事件とフランス世論―百年の余韻 | |
34巻 | 第182回 | 1996年5月22日 | P.Deniau | 日本文学の翻訳者ノート―フランス人の視点から |
第181回 | 1995年11月22日 | 今村 和宏 | 日本語の語感を外国人に伝える試みについて | |
第180回 | 1995年10月25日 | 三瓶 裕文 | 体験話法について | |
第179回 | 1995年7月19日 | 中島 由美 | マケドニア語における言語構造の変化 | |
第178回 | 1995年6月21日 | 竹内 康浩 | 『ライ麦畑でつかまえて』分析 | |
33巻 | 第177回 | 1995年5月24日 | 清水 朗 | ドイツ語の歴史と「格」 |
第176回 | 1995年3月10日 | 中村 喜和 | 歌、歌、歌 | |
第175回 | 1995年2月15日 | 宮野 悦義 | 「ハルツの旅」の夢 | |
第174回 | 1994年12月7日 | 金井 嘉彦 | 未来のcolonialism | |
第173回 | 1994年7月6日 | 柏崎 順子 | 江戸時代の出版 | |
32巻 | 第172回 | 1994年6月1日 | 友澤 宏隆 | 分詞構文の諸相 |
第171回 | 1994年2月16日 | 田尻 芳樹 | 初期ベケットとジョイス | |
第170回 | 1994年1月26日 | 梅谷 文夫 | 真似の効用 | |
第169回 | 1993年12月15日 | 折敷瀬 興 | 中国語の”表記”−漢字について | |
第168回 | 1993年11月24日 | 前田 良三 | パウル・ツェランとテクストの非対称性 | |
第167回 | 1993年10月20日 | 尾方 一郎 | トーマス・マンと自然概念 | |
第166回 | 1993年7月28日 | 越智 博美 | ハワード・オーダムとその周辺 | |
第165回 | 1993年6月23日 | 小倉 敏博 | 英語の連語と辞書 | |
31巻 | 第164回 | 1993/5/121 | 増田 眞 | ルソーとディドロにおける芸術と政治―18世紀フランス言語論への視座 |
第163回 | 1993年2月17日 | 久保 哲司 | 「自然史」とベンヤミン | |
第162回 | 1993年1月27日 | Renee Lagache | 文法の教育 | |
第161回 | 1992年12月2日 | 榎本 武文 | 小説と読書行為―フィールディングからディケンズへ | |
第160回 | 1992年11月4日 | 坂井 洋史 | 紙銭のはなし | |
第159回 | 1992年10月7日 | 町田 みどり | ヘンリー・ジェイムズとアメリカンガール | |
第158回 | 1992年7月22日 | 藤巻 明 | コールリッジの家をめぐって―ネザー・ストウィーを中心に | |
30巻 | 第157回 | 1992年6月24日 | 桜井 雅人 | 黒人霊歌起源論争 |
第156回 | 1992年2月19日 | 出口 裕弘 | 東京文化私観 | |
第155回 | 1992年1月29日 | 森川 俊夫 | Erkenntnisekel(認識の嘔吐) | |
第154回 | 1991年12月18日 | 山田 泰司 | 一橋以前―昔の人・昔の本 | |
第153回 | 1991年10月16日 | 井上 修一 | シュニッツラー文学における小間使いについて | |
第152回 | 1991年7月3日 | 中野 知律 | 生成研究のめざすもの | |
29巻 | 第151回 | 1991年5月22日 | 新井 皓士 | 山城の春 |
第150回 | 1991年2月20日 | 青木 順三 | 二人のノーベル賞作家―トーマス・マンとハインリヒ・ベル | |
第149回 | 1991年1月23日 | R.Habermeier | Nationalismus und deutsche Wiedervereinigung | |
第148回 | 1990年12月19日 | P.E.Davenport | British Family Names-Their Origin and Character | |
第147回 | 1990年10月24日 | 橋沼 克美 | スウィフトと医学 | |
第146回 | 1990年7月4日 | 三枝 令子 | 語の持つ意味と文の持つ意味―「だけに」の分析 | |
28巻 | 第145回 | 1990年5月30日 | 野崎 歓 | フランス・ロマン派と東方の旅 |
第144回 | 1990年1月30日 | 斎藤 忠利 | アメリカ黒人とキリスト教 | |
第143回 | 1989年11月29日 | 横張 誠 | マルセル・デュシャンの極薄をめぐって | |
第142回 | 1989年10月25日 | 寺澤 盾 | チョーサー『騎士の物語』―性格描写の手段としての口語体 | |
第141回 | 1989年7月19日 | 古沢 ゆう子 | 岩姫の恋と朝霞―寄物陳思とギリシャ詩観 | |
第140回 | 1989年6月21日 | 鵜飼 哲 | メニッペー アルジャンルの可能性(ジャン・ジュネに即して) | |
27巻 | 第139回 | 1989年5月24日 | 菊田 正信 | 文型の話―中国語の場合 |
第138回 | 1989年2月22日 | 李行健・折敷瀬興 | 中国の文字改革 | |
第137回 | 1989年1月25日 | 佐野 泰雄 | カミザール戦争 | |
第136回 | 1988年12月7日 | 坂井 洋史 | 近代中国におけるアナキズム思想 | |
第135回 | 1988年11月16日 | 三瓶 裕文 | 心的空間と言語現象 | |
第134回 | 1988年6月29日 | 河村 錠一郎 | Bridges | |
26巻 | 第133回 | 1988年5月25日 | 塚田 富治 | 政治はいつの頃からいかがわしい行ないと見られるようになったのか―policyという言葉の分析 |
第132回 | 1988年1月27日 | 松本 昭 | 中国語形態素とその文字表記―河野博士の所説を手がかりに | |
第131回 | 1987年12月16日 | 加藤 二郎 | ローベルト・ムシルについて | |
第130回 | 1987年11月18日 | 高沢 治 | ポー短篇小説―増殖する自意識の物語 | |
第129回 | 1987年10月21日 | 金井 嘉彦 | 『ユリシーズ』における死と再生のカーニヴァル | |
第128回 | 1987年6月24日 | 井上 修一 | マリー・アントワネットの伝記について | |
25巻 | 第127回 | 1987年5月20日 | 飯嶋 一泰 | 借用語彙の研究について―ドイツ語史を中心に |
第126回 | 1986年12月17日 | 松岡 弘 | 日本語教育の現在―「のだ」「わけだ」の説明をめぐって | |
第125回 | 1986年11月19日 | 内田 正子 | ディケンズ「荒涼館」読解の試み―非嫡出子の役割について | |
第124回 | 1986年10月22日 | 山田 直道 | シェイクスピアと『復讐者の悲劇』 | |
24巻 | 第123回 | 1986年5月21日 | 松永 正義 | 台湾文学のおもしろさ |
第122回 | 1986年4月23日 | パネラー:中村・滝沢・古沢 | ハムレット―レクチュールの可能性を探る | |
第121回 | 1985年12月18日 | 諏訪 功 | ウィーンのことなど | |
第120回 | 1985年10月30日 | 井上 義夫 | ロレンスと二人の貴族並びに英国の階級差について | |
第119回 | 1985年7月17日 | 佐々木 滋子 | マラルメ・英語・詩の言語 | |
23巻 | 第118回 | 1985年5月22日 | シンポジウム | 前期教育について―制度の改革は可能か |
第117回 | 1985年1月30日 | 山田 泰司 | 「標準英語」と女性 | |
第116回 | 1984年12月5日 | シンポジウム | 大学における語学教育について | |
第115回 | 1984年10月3日 | 平野 信行 | アメリカ南部英語について | |
22巻 | 第114回 | 1984年5月30日 | 古沢 ゆう子 | 古代近代における悲劇的なるもの |
講 演 | 1984年2月24日 | 菊池 亘 | キーツからリルケまで | |
第113回 | 1983年12月21日 | 青木 順三 | 1984年を前に―ハインリヒ・ベルの近作から | |
第112回 | 1983年11月16日 | 小倉 敏博 | ‘tough‘構文のむずかしさ | |
第111回 | 1983年7月6日 | 坂内 徳明 | 手と足の民俗学―私のロシア修業 | |
第110回 | 1983年6月1日 | 滝沢 正彦 | Sheffield方言について | |
21巻 | 第109回 | 1983年4月27日 | 佐野 泰雄 | 17・8世紀における「寛容」概念の変遷について |
第108回 | 1983年3月2日 | 折敷瀬 興 | 「日中辞典」について | |
第107回 | 1982年12月1日 | 梅谷 文夫 | 狩谷?斎について | |
20巻 | 第106回 | 1982年10月27日 | 村山 淳彦 | アメリカ研究管見 |
第105回 | 1982年6月23日 | 松本 昭 | 漢字をめぐる諸問題 | |
第104回 | 1982年5月26日 | 重藤 実 | 語順と文の構成要素 | |
講 演 | 1982年2月17日 | 山川 喜久男 | 英語の語順―統語方史上の一課題として | |
19巻 | 第103回 | 1982年1月27日 | 磯地 明雄 | GENIUS LOCI |
第102回 | 1981年12月16日 | 秋谷 治 | 中世の一老女の呟き―常盤の姥の紹介 | |
第101回 | 1981年11月18日 | 井上 義夫 | ロンドン、1915年9月―D.H.ローレンスと大一次世界大戦 | |
第100回 | 1981年10月7日 | 鈴木 道彦 | フランスの反ユダヤ主義 | |
第99回 | 1981年6月3日 | 森川 俊夫 | 「人間性」について(その比較文化論的考察) | |
第98回 | 1981年5月6日 | 塚田 富治 | モアとベーコンの間―「劇場論的世界像」は可能か | |
18巻 | 第97回 | 1981年1月28日 | 田辺 秀樹 | 寄席芸人としてのヴェーデキント |
第96回 | 1980年12月17日 | 高橋 安光 | エロカンスの復活 | |
第95回 | 1980年11月26日 | 土岐 健治 | ”古典語”のテンスについて | |
第94回 | 1980年10月1日 | 宮下 忠二 | キーツの「ギリシアの壷についてのオード」をめぐって | |
17巻 | 第93回 | 1980年6月18日 | 新井 皓士 | (ドイツ)水車製紙事始 |
第92回 | 1979年12月19日 | 溝口 雄三 | 公とおおやけについて | |
第91回 | 1979年11月21日 | 広田 昌義 | 想像力・歴史・表徴―パスカル「パンセ」について | |
第90回 | 1979年10月31日 | 坂内 徳明 | ロシア民話における”笑わぬ王女” | |
第89回 | 1979年6月20日 | 木山 英雄 | 去年の紹興など | |
第88回 | 1979年6月6日 | B.I.Nelson | 現代の韓国文学について | |
16巻 | 第87回 | 1979年1月31日 | 宮野 悦義 | ワイマールのFerienkurs |
第86回 | 1978年11月15日 | 新井 皓士 | SatyraとSatire-Grimmelshausen,Weise,Beerのロマンについて | |
第85回 | 1978年10月18日 | 越沢 浩 | Wittgensteinと言語 | |
第84回 | 1978年6月21日 | 福居 純 | 詭弁 | |
第83回 | 1978年5月31日 | 山本 和平 | もうひとりのロビンソン・クルーソー | |
15巻 | 第82回 | 1978年2月24日 | 田中 克彦 | 言語学のイデオロギー |
第81回 | 1977年12月7日 | 村山 淳彦 | Dreiser と Greenwich Village | |
第80回 | 1977年10月19日 | 増谷 外世嗣 | Charles Dickens:Hard Times 論 | |
第79回 | 1977年9月21日 | 田辺 秀樹 | ドイツの文学キャバレーについて | |
第78回 | 1977年6月15日 | 桜井 雅人 | アメリカの民謡について | |
第77回 | 1977年4月27日 | 諏訪 功 | ドイツ文献学1966-1976 | |
第76回 | 1977年2月23日 | 恒川 邦夫 | フランス語表現黒人文学について | |
14巻 | 第75回 | 1977年1月26日 | R.J.Crow | Teaching English in Japan |
第74回 | 1976年11月24日 | 山田 泰司 | イギリスの初等教育について | |
第73回 | 1976年10月6日 | 折敷瀬 興 | 中国の「簡化字」について | |
第72回 | 1976年7月7日 | 桜井 雅人 | 英語の受動文について | |
第71回 | 1976年6月2日 | 出口 裕弘 | ラスコーの壁画について | |
13巻 | 第70回 | 1976年2月17日 | 山田 直道 | オセローについて |
第69回 | 1975年12月24日 | 滝沢 正彦 | フレンドシップについて | |
第68回 | 1975年10月29日 | 広田 昌義 | マーキュリーの話 | |
12巻 | 第67回 | 1975年6月4日 | 井上 修一 | ドイツの大学 |
第66回 | 1974年12月4日 | 高橋 安光 | ウートポスやエリフォンをめぐって | |
第65回 | 1974年11月6日 | 山本 和平 | ゴールドスミスの田園について | |
第64回 | 1974年10月2日 | 久保内 端郎 | 新古英語辞典について | |
第63回 | 1974年7月3日 | 斎藤 忠利 | シンクレア・ルイスにおけるProvincialismをめぐって | |
第62回 | 1974年2月4日 | 増谷 外世嗣 | W・ブレイクの神話と絵画 | |
11巻 | 第61回 | 1973年12月17日 | 海老坂 武 | イワン・イリッチの思想 |
第60回 | 1973年10月1日 | 中村 喜和 | ロシア口承叙事詩のはなし | |
第59回 | 1973年7月2日 | 森川 俊夫 | イエルサレムからローマへ―カトリック教会成立をめぐって | |
第58回 | 1973年6月4日 | 金子 幸彦 | 18世紀文学の潮流 | |
第57回 | 1973年3月4日 | 井上 修一 | アインシュタインの書簡 | |
10巻 | 第56回 | 1973年2月5日 | 猪口 弘之 | 宮沢賢治の短歌について |
第55回 | 1972年11月20日 | 新井 皓士 | 閑人倶楽部「月刊評論」創刊号解題 | |
第54回 | 1972年10月2日 | 磯地 明雄 | ”詩”について | |
第53回 | 1972年6月19日 | 山川 喜久男 | 史的言語学の動向 | |
第52回 | 1972年2月7日 | 平野 信行 | Yiddish Humor について | |
9巻 | 第51回 | 1971年12月20日 | 島田 太郎 | メルヴィルの草稿について |
第50回 | 1971年10月4日 | 中村 喜和 | モスクワ雑話 | |
第49回 | 1971年9月6日 | 宮下 忠二 | 最近のイギリス―人種問題その他 | |
第48回 | 1971年7月5日 | 広田 昌義 | パスカルのパンセ―ポール・ロワイヤル版について | |
第47回 | 1971年6月7日 | 諏訪 功 | ドイツの“政治的”シャンソンについて | |
8巻 | 第46回 | 1971年3月24日 | 久保内 端郎 | 言語の起源について |
第45回 | 1971年2月1日 | 木山 英雄 | 鬼 | |
7巻 | 第44回 | 1970年12月7日 | 富原 芳彰 | 宮廷風恋愛 |
第43回 | 1969年5月17日 | 鈴木 道彦 | フランス雑感 | |
第42回 | 1969年2月3日 | 加藤 二郎 | R.ムシル―留保の態度 | |
6巻 | 第41回 | 1969年1月11日 | 増谷 外世嗣 | オーデンの眼 |
第40回 | 1968年11月25日 | 平野 信行 | 馬・山羊・コンピューター―ジョン・バースの特異性について― | |
第39回 | 1968年11月4日 | 福居 純 | パスカルにおける正義 | |
第38回 | 1968年6月24日 | 永井 みち子 | Language Laboratoryについて | |
第37回 | 1968年5月27日 | 宮野 悦義 | Heineとフランスの友人 | |
5巻 | 第36回 | 1967年11月27日 | 三城 満禧 | 生成文法の最近の発展について |
第35回 | 1967年10月30日 | 海老坂 武 | メルロー・ポンチの言語観をめぐって | |
第34回 | 1967年9月25日 | 梅谷 文夫 | 通 | |
第33回 | 1967年6月26日 | 平野 信行 | フォークナーにおける「共同体」意識―「サートリス」を中心に | |
第32回 | 1967年5月29日 | 橋本 郁雄 | ドイツ方言研究の現状 | |
第31回 | 1967年1月30日 | 岩田 一男 | 中島敦鷄肋 | |
第30回 | 1966年12月19日 | シンポジウム | 「ローマン主義」について | |
4巻 | 第29回 | 1966年11月28日 | 宮下 忠二 | キーツのイメージの特質 |
第28回 | 1966年9月26日 | 河村 錠一郎 | 「バロック」について | |
第27回 | 1966年6月27日 | 出口 裕弘 | E.M.シオラン「歴史とユートピア」について | |
第26回 | 1966年5月30日 | 亀井 孝 | PVLCRA VT LVNA | |
第25回 | 1966年1月31日 | 山本 和平 | レイモンド・ウイリアムズ「ロング・レヴォリューション」について | |
第24回 | 1965年12月20日 | 鈴木 道彦 | サルトルに於けるアンガージュマン文学の形成 | |
3巻 | 第23回 | 1965年11月29日 | 青木 順三 | トーマス・マンと両次大戦 |
第22回 | 1965年10月25日 | 高橋 安光 | シヴィリザシオン原義考 | |
第21回 | 1965年10月4日 | 柏瀬 清一郎 | バーミヤン石窟寺―ヒンズークシ探検 | |
第20回 | 1965年9月27日 | 富原 芳彰 | カタルシスについて | |
第19回 | 1965年6月28日 | 長谷川 欣佑 | 文法の概念 | |
第18回 | 1965年5月31日 | 鈴木 秀勇 | フス及びコメンスキー研究の問題点 | |
第17回 | 1965年5月1日 | 杉浦 博 | リルケ「マルテ」から「悲歌」へ | |
第16回 | 1964年11月30日 | 斎藤 忠利 | アメリカ黒人の文学 | |
2巻 | 第15回 | 1964年9月28日 | 山田 欣吾 | ヨーロッパ概念の変遷について |
第14回 | 1964年6月22日 | 山田 泰司 | ミルの詩論 | |
第13回 | 1964年4月27日 | 植田 敏郎 | ヘルダーの国家観 | |
第12回 | 1964年2月28日 | 渡辺 金一 | 中世キリスト教世界とビザンツ | |
第11回 | 1964年1月27日 | シンポジウム | 語学教育のあり方について | |
第10回 | 1963年12月17日 | 森川 俊夫 | ドイツ人の物の考え方 | |
第 9回 | 1963年11月15日 | 菊池 亘 | 「ギリシャの壷によせるオード」の末尾2行について | |
第 8回 | 1963年10月21日 | 増谷 外世嗣 | アメリカ社会と文学の一断層 | |
第 7回 | 1963年9月26日 | 山田 和男 | The Catcher in the Rye の言語について | |
第 6回 | 1963年6月24日 | 山川 喜久男 | 英語における動名詞の発達について | |
第 5回 | 1963年5月27日 | 大畑 末吉 | ファストは悲劇か喜劇か | |
第 4回 | 1963年4月29日 | 金子 幸彦 | レールモントフの「現代の英雄」について | |
第 3回 | 1963年2月25日 | 橋本 郁雄 | 第2次大戦後ドイツにおける国語問題 | |
第 2回 | 1963年1月28日 | 海老池 俊治 | 花柳春話その他 | |
1巻 | 第 1回 | 1962年11月26日 | 根岸 国孝 | マノン・レスコー |